今回は偶然にも取り扱うチャンスに恵まれたので、日本の元祖スーパーカーとも言える2000GTについて詳細にお話します。
日本のスーパーカーと言われれば、最近ならレクサスLFAや日産GTRを思い浮かべられる方も多いのではないでしょうか?
これらが登場するよりも遥か以前、実は日本にも元祖スーパーカーとも言える車が存在していました。
「トヨタ2000GT」です。
定義の仕方によっては、2000GTはスーパーカーではなくスポーツカーになるのかも知れません。
しかし、その存在感、デザイン、突き抜けた価格、性能、開発ヒストリー、人気、希少性、改めてみていくとどれをとってもまさに日本を代表するスーパーカーだと言えるのではないでしょうか。
開発ヒストリー
この開発ヒストリーがすでにスーパーカーが持つ特有の逸話となっています。
2000GTが生み出されたのは1960年代で、時代でいうとスーパーカーの本道ともいえるランボルギーニならミウラと同世代ということになります。
当時の日本はまさに戦後復興から抜け出し高度経済成長の真っ只中に突入していました。
1964年の東京オリンピックを起点として、白物家電と共に車も生活必需品として急速に市民生活に浸透していきました。
いわゆるモータリゼーションの勃興です。
そんな中、メーカーの技術の象徴や人々の憧れとしてスポーツカー開発競争が各社で繰り広げられます。
当時はニッサンやホンダに遅れをとっていたトヨタが挽回するための秘策として本格的スポーツカー開発に着手します。
時を同じくしてヤマハ発動機もスポーツカー開発に名乗りをあげ、ニッサンとの共同研究をしていましたが、スポーツカー開発に必要となる莫大な研究開発費などの問題により頓挫してしまいます。
1965年、まったく新しい本格的スポーツカーの生産に向けてパートナーを探していたトヨタと、二輪のノウハウを生かして高性能な四輪開発に打って出たかったヤマハ双方のニーズがマッチする形で、両社の業務提携が始まりました。
トヨタが基本設計を作り、そこにヤマハのDOHCのエンジンヘッド技術や楽器造りに用いられる木工技術が合わさりプロジェクトは更に進化し加速。
こうして、当時の国内最高の技術と革新的なメーカー共同での開発体制により2000GTが生み出され、同年の東京モーターショーで華々しいデビューを飾りました。
本格的開発着手からわずか1年での試作車デビューと、異例ずくめのプロジェクトでした。
スーパーカーの誕生秘話としては珍しくなくぴったりマッチしたヒストリーだと思いませんか。
デザイン
未だに色あせることのない、FRレイアウトのスポーツカーとして理想的な完璧な美しさです。
流麗なロングノーズショートデッキスタイル、特徴的で力強いフロントノーズの形状、圧倒的に低いボンネットフード、どれをとっても見事と言う他ありません。
なお、その後しばらくの間、スポーツカーの象徴となったリトラクタブルヘッドライトを日本で初めて使用したのもこの2000GTです。
ホイールには当時まだ自動車部材としては例がなかったマグネシウムが使われています。
この辺りは開発力の高さがうかがいしれます。
価格
販売価格は、238万円でした。
当時の大卒の初任給が3万円以下だったことを考えると、今の価値に直せばおそらく2000万円程度になるかと思われます。
ただし、あくまでもイメージリーダーとしての象徴的存在であり、これでも開発費を按分すれば利益を出せる価格ではなかったようです。
希少性
イメージリーダとしての役割を果たすとすぐに生産が終了されたため、1967年から1970年までのわずかな期間で、337台のみが生産されました。
この数字は、発売後すぐに全車種プレミアがついてきたフェラーリのスペチアーレよりも少ない台数です。
(ラ・フェラーリの限定数は499台)
人気
生産台数の少なさからくる希少性や情熱的な開発ヒストリー、映画007シリーズでのボンドカーとしての活躍も相まって、国内外で根強い人気を誇ります。
条件が揃った個体は1億円以上の高値で売買された例もあるほどです。
性能
2000GTの心臓部は、新型クラウン用に開発が進められていたM型と呼ばれる2リッター直6エンジンをベースにヤマハがDOHC化したものが用いられました。
150PS/6,600rpmという、日本車としては最高クラスの出力を得て、最高速度220km/hを発揮しました。
この性能は当時のスポーツカーとしては、世界のトップレベルに相当します。
他にもエンジンが全輪車軸より後ろで終わる完璧なフロントミッドシップレイアウトからくる重量配分の良さなど、今の自動車開発では考えられないほどの理想が貫かれています。
どの項目をとっても、これぞまさに後世まで長らく伝説として語り継がれるスーパーカーとしてふさわしい車ではないでしょうか。
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